アマチュアプリンターのページ A

ここ数年間の技術の進歩は、その前の数百年にも匹敵するように思われます。最初は土や岩の壁に書いたものから、粘土板や石板そして獣の皮をなめしたもの、更に木を薄く削ったものなどに書いたり刻んだりして記録が行われてきました。やがて紙が出現し普及し始めると洋の東西を問わず、その記録するのが楽なこと、保管場所は狭いところに大量に置けること、そしてその軽さから持ち運びに便利なことなどから更に多く使われるようになりました。

ある程度紙の普及が進むと、同じものを一度に多くの人たちに見せたい・知らせたいという希望をかなえるために、平らな木の板に裏向きの文字を彫りその上にインクを塗って紙を置きました。これに上から圧力を加え紙をはがすとそこには文章が書かれていました。繰り返せば短時間にたくさんの文章ができるようになったのです(印刷のはじまりです)。そしてこの基本的な工程は現代の印刷でもまったく同じなのです。

グーテンベルグの印刷機











グーテンベルクという人物が板に刻んだ文章をバラバラにして一文字だけの判(活字)を作り、これを組み合わせて文章を作ることに成功しました。これまでの書物は印刷(出版)すれば、次の印刷に備えてその版木を保管しなければならなかったのですがその必要がなくなったのです。まるで粘土板に刻んだ文字を保管していた倉庫が、紙に書いた記録を保管する倉庫に変わったくらいの差がありました。偉大な進歩といえるでしょう。今から30年時代をさかのぼることができたならば、街角のそこここに小さな印刷屋さんの看板を見ることができるでしょう。名刺・案内状・伝票・年賀状その他小口の印刷は、ほとんどこれらの活版印刷の守備範囲だったのです。今ではコピー機を置いている<コンビニ>と家庭にあるワープロと、このホームページを見ている人のパソコンが活版業者の仕事の大半をするようになったのです。

昭和30年代の後半(1962)に「富士ゼロックス」から発売された機械は原稿を入れるとそれがそのままプリント(印刷)されてしまうものでした。「コピー」と呼ばれていた(今でも存在しますが)それまでの機械は原紙(光が透り易いしっかりした紙)と感光紙を重ねて機械に入れ、中で原紙が分離して戻ってくる間に感光紙は現像液の中を通り乾燥しながら半分湿ったものが出ていました(日光写真というものを知っている方はその大きなものと考えればわかりやすいでしょう)。こんな手順を踏んでしかも白と黒が逆に出てそれが青に発色しているようなコピーを使っていたところへ、原紙を作らなくてもそのまま書類や画像をセットするだけで機械に収納してある普通紙に何枚でも原稿そのままのコピーができるようになりました。この感光紙でない普通紙は、当時「ゼロックス用紙」と呼ばれ(厳重な品質管理がされているとされ)普通の上質紙と区別され高価格で「ゼロックス」から供給されていました。しかし他のメーカーのコピー機参入もありこの新しいコピー方式は通称「ゼロックス」から[Plain Paper Copy]と呼ばれるようになり、その用紙を[PPC用紙]と呼ぶようになりました。




この印刷方法はそれまでの版を作るやり方とまったく異なっていたのと(印刷と言わずに)「コピー」の名前で売り出された為、印刷業者たちは自分たちの分野を侵されるとは夢にも思わず、まったく防御をしなかった。その結果この機械が普及するにつれて印刷業は圧迫されてきたと分析する専門家もあります。

この少量印刷方式は、その簡便さと費用の面でこれまでの印刷を圧倒しました。しかしその印刷量には限度があり、これを越えると時間とコストは従来方式が有利になってきます。






1962年に日本ではじめて発売された「ゼロックス 914 型」普通紙コピー機

問い合わせ、ご注文は左のノートをクリックしたください


アマチュアプリンターのページ B


ホーム ページ